2016年




ーーー5/3−−− 百人一首を憶える


 
二ヶ月ほど前から、百人一首を憶えようとしている。と言うと、漫画や映画の影響かと思われるかも知れないが、全く関係ない。万年筆を使ってひらがなの練習をするのに、格好のテキストだと思ったからである。何故今ひらがなの練習かと言えば、それが真の目的ではない。ただ、万年筆を使いたいからである。万年筆を使いたい理由は、コンバーターを導入して、万年筆を身近に感じるようになったから。コンバーター導入の経緯については、この二月の記事を参照願いたい。

 「むすめふさほせ」の一枚札から順に憶え、ようやく四枚札まで終えた。これで45首。それ以外に、以前から記憶していた歌もある。それをチェックしたら16首あった。つまり現時点では、45+16=61首をカバーしたことになる。まだまだ先は長い。

憶え易い歌がある一方、まことに憶え難い歌もある。情景描写をテーマにした歌で、しかも現代語に近い単語で構成されているものは、憶え易い。例えば

  ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる

  きみがため はるののにでて わかなつむ わがころもてに ゆきはふりつつ

  やまざとは ふゆぞさびしさ まさりけり ひとめもくさも かれぬとおもへば

それに対して、抽象的な恋の歌で、しかも古語が使われているものは、覚えるのに苦労する

  すみのへの きしによるなみ よるさへや ゆめのかよひぢ ひとめよくらむ

  うらみわび ほさぬそでだに あるものを こひにくちなむ なこそおしけれ

  いまはただ おもひたえなむ とばかりを ひとづてならで いふよしもがな

どういう意味なのかすら分かりかねるような歌である。ほとんど丸暗記するしかない。

 数日に渡って、何度読み返しても、憶えられない歌もある。それが、ある時突然、記憶に定着する。その変化が、自分の事ながら面白い。そして、一度憶えた歌は、サラリと蘇る。他の歌とごっちゃになって、憶え直しをしなければならないケースもあるが、基本的には一度憶えた歌は忘れない。人間の記憶のシステムというものは、なんとも不思議なものだと、改めて感じたりする。

 百人一首は、恋の歌が多い。印象としては七割方が恋の歌のように感じたが、調べてみたら43首とのことだった(半数以上が恋の歌という説もある)。それにしても、多い。それも、片想いや失恋など、切ない恋の歌が目立つ。こんなプライベートなことは、ご自身の心の中に留めておきなさいと言いたくなるような歌も多い。当時の貴族や殿上人は、このような事しか頭に無かったのだろうか? 恐らく余程する事が無く、暇を持て余していたのだろう。

 それはともかく、さすがに厳選され、今日まで語り継がれているだけあって、どの歌も語感の美しさが印象に残る。何が理由で、どのように美しいかを、外国人に説明しろと言われても、私には無理である。理屈抜きで、しっくりほのぼのと響くのである。伝統に根ざした文化と言うものは、こういうものなのだろう。
 



ーーー5/10−−− 輸送業の様変わり


 
先日、ご注文で製作したテーブルを、東京へ送った。輸送業者を使ったのだが、ここ二、三年の輸送業界の様変わりには当惑した。

 以前はもっぱら、N社を使っていた。穂高営業所へ持ち込めば、大型のテーブルでも、食器棚でも、扱ってくれた。基本的には送り先の玄関までと言われていたが、実際には全てのケースで、室内まで入れてくれた。大型家具の場合、搬入は二人がかりとなる。ドライバーに補助員をつけるという事になるが、プラス料金は取られなかった。言わばサービスで搬入までやってくれたのである。

 昨年、その営業所が閉鎖された。三年ほど前から、所内に並ぶ貨物の量が激減し、心配をしていたが、その不安が的中した形となった。

 今回テーブルを送るに当たり、まずN社の松本営業所に電話をした。そうしたら、大型貨物の個人宅向けの配達は止めになったと言われた。宅配便サイズの貨物も、N社が単独で扱う事はしなくなった。つまり、N社は個人宅向けの配達サービスから撤退したとのことであった。

 次に、数年前の一時期使っていたS社に問い合わせた。この品物はサイズオーバーなので受けられないとの返事だった。テーブルを送るなら、大型貨物の扱いになるが、チャーター便となるので、たいへん高額になると言われたので、断った。

 N社の営業所が閉鎖されてから、椅子などの小型家具の配達はY社に頼んでいる。何故Y社なのかという顛末に関しても、いろいろあったが、ここでは省いておこう。そのY社のサイトを調べたら、やはり通常の宅配便としてはサイズオーバーだった。その代わり、大型家具配送サービスなら、扱い範囲内であった。これは、集荷、梱包、配達、設置、開梱までを一貫して行なうサービスである。そのため、料金が高い。以前N社で送ったのに比べて、二倍以上の金額となる。

 他に扱ってくれる業者が見付からなかったので、この大型家具配送サービスを使うことにした。ただし、梱包は従来どおり自分でやった。何故かと言うと、このサービスは引越しを想定したものなので、新品の製品の梱包を任せるには不安があることを、以前の経験で知っていたからである。梱包をした品物でも、料金は変わらないから、ちょっと損をした気持ちになる。

 かくの如く、製品を送るのは、昔のように簡単には行かなくなった。宅配便が活況を呈している現代だが、それはせいぜいリンゴ箱程度の小型の貨物、ドライバーが一人で運べるサイズに限られている。そういう一般的な利用者のニーズから外れた品物は、どこも扱ってくれないのだ。扱ってくれたとしても、プラスアルファのサービスが付いているから、料金が高い。

 家具メーカーや家具販売店は、独自の輸送手段を持っている。一方、個人で大型家具を送るのは、引越しくらいなものだ。木工家具工房が、製品を個人のお宅へ送るなどというのは、輸送業者にとっては、極めて稀なケースに違いない。そんなことに対応するために、社内体制を整えておく必要など無い、という判断なのだろう。

 これも大量生産、大量消費社会の一断面ということか。




ーーーー5/17−−−− 新世界のメロディー


 
ドヴォルザーク作曲の「新世界」、その第二楽章には懐かしい思い出がある。それも、有名な「にーしのーやーまにー」の部分ではなく、それに続く第二主題、哀愁を帯びたメロディーにである。

 私が通った中学校は、東京都中野区立第三中学校である。JR中央線東中野駅の北側近くにあり、上り列車が駅を過ぎると、進行方向左手に一瞬だが見える。ビルや住宅に囲まれた、敷地の狭い、都会の学校である。自然環境には、全く恵まれていない。

 三年のとき、図書委員になった。図書室は、校庭を挟んで本校舎の向かいに建っている別館の3階にあった。図書委員は週に何日か、放課後に図書室に集まって、作業をした。一般生徒が下校する時刻を過ぎても、残って作業を続けた。その下校の音楽が、新世界の第二楽章であった。

 秋は日暮れが早い。下校時刻には、校舎に夕闇が迫った。校庭には誰も居なくなり、静まり返った。校舎に明かりが灯った。空に夕焼けが広がることもあった。寒々とした風が、窓ガラスを叩くこともあった。それらが一体となって哀しさを演出する。生徒が去り、寂しくなった校庭や校舎を図書室から見下ろすと、感傷的な気分になった。その感傷をあおるのが、例のメロディーだった。

 私は今でも、夕暮れ時の工房で、新世界を流すことがある。そしてかのメロディーを聞くと、はるか50年前の感傷が蘇るのである。

 



ーーー5/24−−− 辞書の違い


 我が家の子供たちが小さかった頃、時おり言って聞かせた話題。彼らが覚えているかどうかは分からないが。

 ある言葉の意味を調べると、英語の辞書と国語辞典では、はっきりとした違いが発見されることがあって面白い。そこに漠然としたお国の違いを感じることがある。

 たとえば「左」という言葉。英語では「left」。

 英英辞典Websterで「left」の意味を調べると、「身体の部分、特に手が付いている体側に関して、大多数の場合において、心臓が入っている側」と書いてある。私が日本語に訳したのだから、ちょっと怪しいかも知れないが、おおむねそのような意味である。

 一方、大辞林で「左」を調べると、「空間を二分したときの一方の側。その人が北を向いていれば、西にあたる側」。と書いてある。なるほど、そういう表現もあるのか、と思うが、こんどは「北」を調べてみると「方角の一。日の出に向かって左の方角」とある。おや?これでは説明として成り立たない。ある言葉を説明するのに、結局その言葉を使っている。

 これはどういう事だろう。我が国では、誰でも知っている事、説明するまでも無い事については、権威ある辞書も手を抜いているのだろうか。

 他に、赤や緑など、色について調べても、言葉足らずな説明が目に付く。全く知らない人に正しく伝えたいという意欲が感じられない。そして、科学的な踏み込みに欠け、感覚的な表現に偏る傾向がある。それは大辞林に限らず、国語辞典に共通した事である。

 百科辞典ではないから、そんな細かい事は気にしないのだろうか。もっともWebsterだって、百科事典ではないが。

 日本はほぼ単一民族で構成されているから、「みんな同じ、みんな一緒」という傾向が強い。だから、言葉の厳密な定義などあまり必要とされない、などと言ったら、学者先生から叱られるだろうか?




ーーー5/31−−− 工房入り口の改修工事


 
工房の入り口を改修した。テラスと階段である。これらは、以前から問題視されていた。工房建設当時に、自分で作ったものが、傷んでボロボロになり、その場しのぎで直すという事を繰り返してきた。それも限界に近づき、ここ数年は見た目にもガタガタで、実用的にも危険を感じるようになって来た。特に階段が問題で、来客を迎えるたびに「足元が危ないので、気をつけて下さい」と注意を促すほどだった。お客様の中には、すごく印象が悪いから直したほうが良いと、アドバイスをくれる人もいた。

 本格的な改修工事を、いずれはやらなければと思いつつ、年月が過ぎた。自分でやろうにも、片手間でできるような作業ヴォリュームではない。工務店から見積りを取ったこともあったが、数十万円の金額だったので断った。知り合いの木工家が、川原から石を拾ってきて積めば良いと教えてくれたが、現実的ではないように思われた。

 家内はずいぶん前から、改修を訴えてきた。それを私が無視し続ける形だった。その家内が、この五月の連休の終りに突然、ボロボロになったテラスと階段の部材を撤去し始めた。要するに実力行使である。何も無くなった工房のアプローチは、段差が激しく、さすがに不便な状態になった。そのまま放置したら、日常の仕事に差し支えるし、来客を迎える事態にでもなったらたいへんだ。それで私としても、やむなく重い腰を上げることになった。

 たまたま最近、防腐剤を圧力注入した材木が市販されており、屋外の構造物を作るのに具合が良いという事を知った。知り合いの工務店の親方に電話で聞いたら、そういう材木を製造している松本の業者を教えてくれた。急に話が現実味を帯びてきた。その業者から材木のリストを取り寄せ、サイズを見ながら、なるべく無駄が出ないようにテラスと階段を設計した。構造や施工法について分からないことは、例の親方に電話をして訊ねた。その都度、明快な答えを与えてくれて、大いに助かった。

 実質一週間程度で工事を終えた。掛かった材料費は6万円弱。この材木は、10年間は品質保証、実際の耐用年数は20年以上と言うから、この先手直しをする事は無いだろう。

 見違えるほど立派になった。画像は、左が昨年2月の状態、右が改修工事終了後。こんなに綺麗に、快適になるなら、もっと早くやれば良かったと、月並みな感想が思わず口から出た。

                                  







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